「融合知が導く大学と社会の進化」

左:国立大学法人東京農工大学 学長 千葉 一裕
右:氏家経済研究所 代表取締役 / 野村ホールディングス元会長 氏家 純一

国立大学法人東京農工大学 学長
千葉 一裕

氏家経済研究所 代表取締役 / 野村ホールディングス元会長
氏家 純一

7月24日、株式会社氏家経済研究所 代表取締役社長・氏家純一氏と、東京農工大学 千葉一裕学長による対談が行われました。
今回は、その第2部をお届けします。

第2部:融合と未来技術-「生命機械」が社会を変える-

千葉
ここからは、少し視点を未来に移してお話しできればと思います。
「融合」あるいは「融合と未来技術」という観点から、「生命機械が社会を変える」といった、非常に刺激的な表現を耳にすることがあります。
こうした考えを基盤に、現在では、農業・生命科学・機械工学・情報科学といった分野が相互に融合しつつある、という見方もあるかと思います。
こうした技術や学問分野の融合が進む中で、今後どのような未来が見えてくるのか──その点について、氏家さんはどのようにお考えですか?

100年前、工学と物理学が融合したことで
科学は大きく進化した。 氏家

氏家
この分野については、非常に大きな衝撃を受けたと言いますか、明るい未来が見えてきたと感じたとても希望を感じさせる分野なのです。
今から4〜5年前のことになりますが、『生命科学が未来を変える』という本を人に紹介されました。著者はスーザン・ホックフィールドさんという方で、
生命科学の研究者でありながら、イェール大学からMITの総長に就任された方です。その本には、非常に印象的なことが書かれていました。
彼女の主張はこうです。「100年前、工学と物理学が融合したことで科学は大きく進化した。レーザー、エンジン、コンピューター、
そして今日のデジタルトランスフォーメーションの基盤までもが、この融合から生まれた」。そして、「これから世界を大きく変えていくのは、
生物学や生命科学と、工学・情報科学・物理学との融合である。
100年前の工学と物理学の融合と同等、あるいはそれを超える破壊力を持った新しい分野が、これから開かれていく」と。
本の中では、たとえばウイルスを使って新たな技術を創出したり、ナノ粒子でがんに打ち勝つような技術が登場したり、あるいは自然の力、
例えば森林などを活用してタンパク質を生産する技術が紹介されていました。正直、「これって本当なのか?」と思うような世界が、実際に広がっているんです。
千葉さんのご専門にも近いところですが、医療分野でもこうした動きは急速に広がっており、まさにこれが「コンバージェンス2.0」なのだと思います。
工学と物理学の融合を「コンバージェンス1.0」とするならば、今私たちが目の当たりにしているのは、それに続く「2.0」であり、世界を根底から変える
可能性を秘めています。実際、この本に感銘を受けた理工系の方は多いのではないでしょうか。
私自身、かつて東京医科歯科大学の経営に関わっていた時期がありましたが、そこでもこの「コンバージェンス2.0」は大きな話題となっていました。
もちろん、他にもさまざまな要素はありましたが、医学と工学の融合という新しい時代の潮流に応えるかたちで、
東京科学大学が誕生した――私はそう捉えています。そして、この生命科学と工学の融合の次に来るべきは、自然の力、
つまり農業や農学、水、空気といった領域と、工学・物理学との融合だと考えています。ここが、今後大きく変わっていくはずです。
現在の日本社会は、少子高齢化と人口減少の影響で、食料の自給率すらままならない状況になりそうです。一方で、世界に目を向けると、
人口は90億人に達しようとするなか、40数億人が飢餓に直面し、安心して飲める水すら手に入らない国も数多く存在します。そうした現実を踏まえると、
今後私たちが取り組むべき科学技術は、単に工学と物理学の融合にとどまらず、農学、情報科学、物理学が融合した新たな分野にあるのではないでしょうか。
その分野こそが、世界の飢餓や水不足、さらには少子高齢化といった深刻な課題に対し、実効的な解決策を示しうるのだと、私は信じています。
ですので、このような融合は今後、世界中でますます広がっていくはずだと確信しています。

「農学」と聞くと、多くの方が「食べ物」や
「畑で作っている野菜」といったイメージを持たれると思うのですが、 千葉

千葉
おっしゃる通りだと思います。特に「農学」と聞くと、多くの方が「食べ物」や「畑で作っている野菜」といったイメージを持たれると思うのですが、
私が農学を始めたとき、最初に教わったのは、「水と太陽と炭酸ガスだけでジャガイモと酸素ができる」ということでした。
しかも、そのジャガイモに含まれるデンプンは、人間にはいまだに合成できない。つまり、生物や野菜がやってのけていることは、
ものすごいことなのですよね。なぜそれができるのか、ということを追求していく。
今、量子コンピューターやAIなどの技術が進んでいるので、もしかするとその謎が解き明かされるかもしれませんし、
解き明かさなければならないという強い思いもあります。そうすると、人間の活動が活発になることでCO₂が大量に排出され温暖化につながっている、
ということも見方によってはコントロールできるかもしれない。つまり、そういう大きな課題にも、私たちは挑戦できる可能性があるわけです。
だからこそ、そうした考え方がとても大事だと、私も思っています。ひとつ、分かりやすい例があります。
皆さんご存知のマヨネーズは賞味期限が1年くらいあるのですが、マヨネーズって生卵を使っていて、しかも殺菌していないんですよね。
でも、普通に生卵を置いておいたら数日で腐ってしまう。それなのになぜ、1年も保存が効くのか。実はマヨネーズの中の構造に、
 生物の仕組みが応用されているのです。マヨネーズ自体の食塩濃度は約2%と非常に薄く、これだけでは細菌の繁殖を防げません。
でも、マヨネーズにはほとんど水分が含まれていないので、「水に溶けた塩分の濃度」は実は非常に高い。だから、細菌が繁殖できない構造になっている。
私たちが食べたときに塩辛く感じないのに、長期保存が可能な理由はそこにあるのです。これはまさに、生物のメカニズムが活用されている例なのですね。
私はこの仕組みを知る機会があり、その後、化学合成の研究をするようになったときに、その考え方を化学の分野に応用してみました。
すると「非常に新しいアイデアだ」と、当時、高く評価していただきました。普通、化学反応というと「溶剤に溶かして、加熱して反応させる」といった
イメージがありますよね。でも、欲しい物質だけが自然に集まるような環境をつくれば、温度を上げるだけで反応が進む場合もあるのですね。
これは、生物の仕組みを学んで、工学的な化学合成と組み合わせた結果、得られた発想でした。特別に高度な話ではないかもしれませんが、
これまでと違うアイデアを取り入れることで、「食べ物」という身近な分野にも科学の力が活きてくるし、新しい世界が広がるのだと実感しました。
ですから、今おっしゃったように、「未来に向かっては、まさに最先端の工学と、生物や農学を融合させると、とんでもないものができるのではないか」
という点には、私もまったく同感です。まさに、それを実感しているところです。

自然の力を、どうやって工学や物理学の
思考の中に取り込んでいくか。 氏家

氏家
確かに、「とてつもないもの」ができあがるという感覚は、私にも読んでいて少し分かります。
この「とてつもないもの」とは何かというと、従来のエンジニアリングや物理学の延長線上では
考えられなかったものです。では、何を使ってその限界を突破していくのかというと、
大雑把に言えば「自然の力」なのです。たとえば、水と光合成、これだけで生物が生まれる。
その自然の力を、どうやって工学や物理学の思考の中に取り込んでいくか。それによって、
これまで考えられなかったような「とてつもない突破口」が生まれるということを知って、
正直言って驚きました。ですから、これからの科学の進歩の方向性に加えて、教育もその方向に
向かって、少しずつ、しかし確実に勇気を持ってシフトしていく必要があると感じています。

氏家経済研究所 代表取締役 / 野村ホールディングス元会長
氏家 純一

千葉
そのときに少し誤解されやすいのが、「いろいろなことを勉強すればいい」とか、「とにかく融合させればいい」
といった発想です。もちろん、「融合領域をつくる」というのは非常に重要なのですが、その「つくる」という
行為やプロセスばかりに目が向いてしまう可能性もある。重要なのは、「どちらでもよい」というよりは、
やはりそれぞれの分野で本質的なところを極めておくこと。そうでなければ、いざ他の分野と融合させよう
としても、双方があいまいでは大きなものは生まれないのではないかと思います。

氏家
少し言葉に注意しなければなりませんが、私の専門である経済学の分野では、長い間「学際分野」はあまり一流とは見なされてこなかったのです。
ですが、ようやく最近になって、心理学と経済学の融合から「行動経済学」という分野が生まれました。これは、経済学者も心理学者も一流の人たちが
集まってできあがった分野です。つまり、しっかりとした基礎を持った、それぞれの分野の一流の専門家たちが集まってこそ真の融合が起きる。
適当な基礎しか持っていない人たちがいくら集まっても、それは単なる「寄せ集め」にしかならない。
だから、これからはやはり、基礎をきちんと固めた上で、それぞれの分野の一流の人たちが集まる「場」や「仕組み」を作っていく必要がある。
それによって、単なる寄せ集めではなく、真の「融合」が起きて、相互に反応し合うようになるのではないかと私は思っています。

国立大学法人東京農工大学 学長
千葉 一裕

「何かをしっかり持っている人」かどうかで、
大きな差が生まれる。 氏家

千葉
本当におっしゃる通りだと思います。このあたり、「基礎がどれだけしっかりしているか」というのは
実際に会って話をしただけでは、なかなかすぐには分からないものですよね。
たとえばアイデアコンテストやプレゼンテーションなどの場でも、その人がどんなバックグラウンドを
持っているのか、何かを本気で極めようとしてきた人なのかというのはすぐには見えてこない。
でもやはり、私も氏家さんと同じように思うのは、「何かをしっかり持っている人」かどうかで、
大きな差が生まれるということです。たとえばスタートアップを始める場合でも、
どんな分野であれ本当に苦労して何かを乗り越えてこようとした人かどうかで、
その後の結果に大きな違いが出てくる気がしています。

氏家
その通りだと思います。千葉さんの例をお借りすれば、「自分で実験して、何度も試して、結果に納得するまでやったかどうか」、そこが大きなポイントです。
私の言葉で言えば、基礎練習を繰り返して土台をしっかり固めたかどうか、そこがいい加減だとどれだけプレゼンテーションがうまくても
結局は何にもならないですよね。

第3部
大学と人材育成
9月下旬公開予定