「融合知が導く大学と社会の進化」

2025年7月24日、株式会社氏家経済研究所 代表取締役社長・氏家純一氏と、東京農工大学 学長・千葉一裕氏による対談が行われました。
「融合知が導く大学と社会の進化」をテーマに、大学と企業が未来社会にどう貢献していくべきかについて、両氏がそれぞれの立場から語ります。
今回は、第1部「大学の使命と社会の変化」をお届けします。
第1 部:大学の使命と社会の変化
千葉
本日はこのような機会をいただき、ありがとうございます。
今回は是非、現在の大学を取り巻く状況に目を向けながら、これからの大学のあるべき姿について、氏家さんからさまざまな
メッセージをいただければと考えています。私たち大学関係者は、大学が教育と研究の中心的な役割を担ってきたことを十分理解していますが、
それだけではもはや不十分だという認識を強く持っています。これからの時代を見据え、大学は社会に変化をもたらす「実践の場」としての新たな役割を
果たしていく必要があると思います。そのためには、技術、倫理、社会、環境といった分野はもとより、企業、金融、行政といったさまざまな領域との
連携を深めながら、共に未来を創り上げていかなくてはなりません。
しかし、現時点では、そうした連携が十分に機能していないと感じる場面があります。
このような課題に対し、経済界や金融界の第一線でご活躍されてきた氏家さんならではのご視点から、私たちには見落としがちな点も含めて、
多角的にお話を伺えればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
「この領域で勝負する」といった明確な方向性を
定めていくことが求められている 氏家
氏家
こちらこそありがとうございます。今、千葉さんがご質問くださった点で言いますと、かつて、大学では自己完結型の科学が行われていました。
しかし、これは村上陽一郎先生という科学史の先生がおっしゃっていたことなのですが、ここへ来て、科学の社会化とでも言いましょうか、
「科学は最終的には社会に貢献するものでなければならない」といったように科学の方向性が変わってきたと思うのです。
そのスピードがどんどん速くなってきていると思いますね。それで、日本について考えますと、特にアメリカと比較した場合、
科学の「社会化」がかなり遅れてしまったのではないかと感じています。1990 年代にはさまざまな法律が整備され、2000 年には国立大学の法人化も実現し、
制度的には一定の前進が見られました。しかし、少し立ち止まって考えてみると、たとえば1998 年にはすでにグーグルが誕生しており、
その特許はスタンフォード大学から出願されています。その後、グーグルが企業として着実に成長し、日本に上陸した頃、
日本の大学はようやく国立大学法人へと移行し始めた時期でした。こうした流れを見ますと、日本の大学は、国際的な動きに対して残念ながら一歩遅れを
取ってしまったと言わざるを得ません。ただ、今後はその遅れを取り戻すべく、力を入れて取り組んでいく必要があります。
実際、近年の日本においても、アーリーステージやディープテック領域に投資するベンチャーキャピタルファンドが次々と立ち上がってきており、
着実に前進が始まっていると感じています。これは非常に心強い動きなのですが、残念ながら国際的な潮流に比べるとやや立ち遅れているのが実情です。
そのため、今後は「勝ち筋」をある程度明確にし、戦略的に分野を絞って取り組んでいく必要があるのではないでしょうか。
つまり、「ここだ」「この領域で勝負する」といった明確な方向性を定めていくことが求められていると考えています。
もちろん、その勝ち筋を見極めること自体は非常に難しいのですが、日本国内にすでに大きな需要が存在する分野、将来的に需要の拡大が見込まれる分野、
あるいは日本がすでに一定の技術的基盤を持ち、今後さらに発展が期待できる分野などに的を絞ることが、現実的かつ有効なアプローチではないでしょうか。
100% の満足を得られなくても、
60% 程度でも心穏やかに幸せに過ごせるような価値観 千葉
千葉
私もまったく同じ考えです。ただそうなりますと、日本の強みや日本の若者たちの未来を考えたときに、私たち大学の人間は、
今後どのようなことに取り組むべきかを真剣に考える必要があります。そのとき私が大切だと考えているのが日本の文化なのです。
何百年、何千年もの間に培われてきた価値観や社会のあり方、そういったものがやはり基盤になるのではないかと思います。たとえば、日本には狭い空間の
中で多くの人が助け合って暮らしてきた歴史があります。他人のことを思いやる姿勢や、たとえ100% の満足を得られなくても、
60% 程度でも心穏やかに幸せに過ごせるような価値観。それらは日本人の大きな特性であり、私はとても大切なものだと思っています。
地球全体で人口が100 億人に迫る中で、誰もが100% の満足を得られる社会を目指すのは現実的ではないと思うのです。
むしろ、そうした「完璧さ」ではなく、多くの人が「そこそこの満足」で、安定した暮らしを送れるような仕組みをつくる。
そうした発想を、日本人は持てるのではないかと考えています。そしてその上で、新しいテクノロジーやイノベーションをどう活かしていくか、あるいは、
そうした日本独自の価値観をどのように世界に発信していくか。そうしたことこそが、日本の強みの一つになるのではないでしょうか。
単に技術やシーズだけでなく、こうした文化的な背景や思想も含めて発信していくことが、これからはますます重要になると私は思っています。
その点については、いかがお考えでしょうか。
氏家
そうですね、西欧、特にアングロサクソンの世界と比べると、日本は、飛び抜けて何かを成し遂げるとか、
人を押しのけてでも目的を達成するというような姿勢を、あまり得意としていません。あるいはあまり好まない傾向にあると感じます。
これは、私自身の大学時代の経験や、海外で仕事をしたときの実感から言えることです。そういった背景から考えると、「全員が一気に大きく飛躍する」こと
を目指すよりも、「みんなが“そこそこ” 良くなる」「一定の満足を得られる」ことに関心を持ち、そこに力を注いで研究していくという方向性は、
日本にとって十分にあり得る選択だと思います。実際、日本は基礎科学において非常に高い実力を持っていますが、
それを使って一部の人だけが極端に裕福になるような仕組みづくりはあまり向いていないし、そもそもそういう価値観を良しとしない文化があるのではない
でしょうか。そうした意味でも、先ほど千葉さんがおっしゃっていたことには、私もかなり共感しています。
私自身、アメリカで金融系の会社を経営していた経験があるのですが、彼らの「どこまでも突き進む」「取れるものはすべて勝ち取る」といった考え方には、
やはり違和感を覚えました。もっと「みんなで一緒に進む」といった発想があってもいいのではないか、と感じたことを今でもよく覚えています。

国立大学法人東京農工大学 学長
千葉 一裕
千葉
ありがとうございます。それから、氏家さんがいつもおっしゃっているように、
大学では基礎的な勉強を何度も反復しながら、しっかりと頭に叩き込んでいくことが
将来大きく発展していくうえで重要だという点については、私もまったくその通りだと
思っています。ただ、私自身の経験から言いますと、「習う」「勉強する」ということに対して、
少し違ったイメージを持ってきました。
もちろん授業でもさまざまなことを学びましたが、それはあくまでも一つの“刺激” であって、
本質的には、大学でも「自分で勉強しよう」と思って取り組んだことが、
最も身についていると感じています。
私の専門は化学でしたが、たとえば10mg ほどの物質を天秤のような装置で測定したときに、
表示される数値が「10.013」といった値だったとします。そのときに、
「この数字は本当に正しいのだろうか?」「なぜこの数値が出るのか?」といった疑問を
持つことが、実は非常に重要なのですね。そうした問いを持つことで、重さの測り方や
計測の原理、さらにはその技術がどのように進化してきたのかといった背景が見えてきます。
つまり、一つひとつの事柄について「これで本当にいいのか?」と問い直していく姿勢、
「出てきた結果をそのまま鵜呑みにしない」というスタンスで物事を見て勉強していくことで、
「なるほど、これはこういう理由で信頼できるのだな」と納得できるようになる。
そういう学び方こそが、本質的な理解につながると感じています。
そして、こうしたアプローチはおそらく自然科学だけでなく、経済学など他の分野にも
通じるものではないでしょうか。常に「本当にそうか?」と問い続けながら反復して考えること。
それこそが「本当の学び」なのだと思います。おそらく、氏家さんがおっしゃっていることも、
そうした意味合いを含んでいるのではないかと私は思うのですが、いかがでしょうか。
氏家
今のお話とほとんど重なりますが、私自身、大学院時代を海外の大学で過ごしました。
そこで感じたのは、大学院に入ってからも、かなり基礎的な内容を繰り返し練習して、
徹底的に身につけていくという姿勢が非常に重視されていたことです。
なぜそこまで基礎を反復するのか。それは、見た目には派手で目新しい科学ではなく、
科学の根底を支えている、いわば「コーナーストーン」、つまり“科学という建物を支える
土台の石” をしっかりと築くことが、非常に大切だからなのです。
その土台がなければ、上にどんな理論や発見を積み重ねようとしても、
何も立たないということに、私自身、強く気づかされました。
ですから、千葉さんは「きちんと実験をして、何度も繰り返して、そこから結論を導き出す」
というプロセスの重要性をおっしゃっていましたが、それはまさに私が経験したことと重なります。
私にとっては、基礎の繰り返し練習こそが、その上に科学の構造を築いていく
土台になっていたんですね。もしその基礎の部分で、千葉さんの言うような繰り返しの
実験を行わず、あるいはそこを省略して、自分の理論や考えだけで構築しようとしたとしても、
それは結局ほとんど役に立たないものになっていたでしょう。
これは少し厳しい言い方かもしれませんが、そういう危うさがあるのではないかと思うのです。
そしてこの話は、教育全般にも当てはまるのではないでしょうか。
たとえば、学生が企業に入ったとき、少し新しい知識をかじっている学生よりも、
基礎がしっかりと身についている学生のほうが、ずっと大きな伸びしろを持っていると感じます。
自分で実験をして確かめて、納得していくような姿勢を持っている学生は、
やはり成長の幅が大きいと思います。だからこそ、「基礎の力」や「自分で確かめることの大切さ」
というのは本当に重要なのです。これは学部教育だけでなく、修士課程にも当てはまることだと
思います。修士レベルとは単に応用分野の入門編を書く段階ではなく、
それまでに自分がしっかりと学んできた基礎を使って、それがどう機能するのかを
自分の手で試してみる、そういう段階なのではないでしょうか。私はそのように考えています。

氏家経済研究所 代表取締役 / 野村ホールディングス元会長
氏家 純一
千葉
そうですね、たとえば、化学と聞くと多くの方は試験管やフラスコの姿を思い浮かべると思うのですが、ある時、化学の分野で活躍されている先輩から、
こんな質問を受けたことがあります。「なぜ試験管は透明なのか、わかるか?」。もちろん、それはガラスでできているからなのですが、この問いには
もう一つ重要な意味が込められていました。試験管が透明であることで、内部に物質が入っている状態を外から観察できるのです。
たとえば、加熱したときに何が起きているのか、どのように変化していくのかを視覚的にとらえることができます。
つまり、「観察できる」ということ自体が、化学においては非常に大切な要素だということです。何かの薬品を入れたら何か変化が起こります。
そこで重要なのは、「なぜこうなったのか?」と常に問いかける、つまり常に対話をして、自分の頭で考え仮説を立てる。要するに思考が大切なのですね。
常に頭を使うということが、大学の最も基本的なところではないのかなと思っています。もちろん、基礎的なサイエンスをしっかり学ぶことも大切です。
ただ、それだけではなく、学ぶ姿勢そのものにも大きな意味があると感じた経験があります。
私は以前、スタンフォード大学のビジネススクールの授業を見学したことがあるのですが、そのときに非常に驚いたのが学生たちの授業への向き合い方で
した。教室に入ると、学生はみんな自分の名前が書かれたネームプレートを机の前に置いているのです。「なぜだろう?」と思って見ていると、
天井から一人ひとりに対応するようにマイクがぶら下がっていて、先生が学生全員に問いかけをします。しかも、先生は何か反応した学生の名前を覚えて
いて、「そこの○○君は、どう思う?」「なぜそう考えるの?」と、次々に名前を呼びながら対話を展開していくのです。授業はまるでディスカッションの
連続で、全員が頭をフル回転させながら参加している様子にとても感銘を受けました。
その時ふと、自分自身の学生時代を思い返しました。正直、授業中にそこまで深く考えながら参加していたことは、あまり多くなかったように思います。
そう考えると、とてももったいなかったなと感じました。学ぶという行為は、ただ知識を受け取るだけではなく、自分の頭で考え続けること。
それこそが大学での学びの本質であり、その姿勢次第で、その人の未来も、ひいては日本の未来も大きく変わってくるのではないか──
私はそんなふうに思っています。
氏家
興味深いお話を聞かせていただきました。私はスタンフォードのビジネススクールを訪れた
ことはありませんが、そのような学びの姿勢があるのは、きっとそうだろうなと納得します。
それに関連して、私自身の経験で少し似たようなことを思い出しました。大学院時代、ある
先生に「あまりたくさんの本を読むな」と言われたのですが、同時に「選んで読め」とも
強く言われたのです。その「選んで読め」という言葉には深い意味があって、要するに
「ただ人の考えを吸収しているだけでは、自分で考えていることにはならない」ということ
なのですね。先生はこうも言っていました。「本当に重要なものをいくつか読んだら、あとは
自分の頭で考えなさい」と。つまり、ひたすら図書室にこもって本を読み漁るような学び方
には限界がある、ということです。基礎がしっかりしていれば、必要なのは厳選された情報
と、それをもとに自分で考える力なのですね。この考え方は、先ほどのお話にも通じると
思います。自分の頭を使わない限り、いくら過去の知識や本を読んでも、それは本当の意味
での学びにはならない。そう教えられたことが、今でも強く印象に残っています。
千葉
書かれていることをすべて覚えて、それをそのまま再現するというのは、日本人が得意とす
るところかもしれません。でも、これからの時代は、そのようなやり方だけでは通用しなく
なっていくのではないでしょうか。だからこそ、今の若い世代はもちろん、大学関係者や
日本社会全体が、この点をしっかり共有していくことが大切だと思います。
自分の頭を使わない限り、
いくら過去の知識や本を読んでも、
それは本当の意味での学びにはならない。
氏家
氏家
ここで話が少しそれてしまうかもしれませんが、日本の場合、特に「追いつけ、追い越せ」という姿勢で、明治以降ずっと走ってきました。
一度戦争で壊れたものの、戦後も同じように努力を重ね、再び立ち上がってきた。しかし、問題は「追いついた後」の進み方がまったくわからなかった、
ということです。追いつき、追い越すまでは、他国がやったことを学び、それを真似することで前に進めました。いわば、後ろから相手を追いかけるような
形ですね。でも、いざトップに立ってみると、この後どのように動けばいいのか分からなくなる──それが、この30 年近く続いている状況だと思います。
だからこそ、今は教育のあり方そのものを大きく見直すべき時期に来ていると、私自身も強く感じています。
第2部
融合と未来技術ー「生命機械」が社会を変えるー
9 月上旬公開予定