「融合知が導く大学と社会の進化」

「融合知が導く大学と社会の進化」千葉 一裕x氏家 純一
「融合知が導く大学と社会の進化」千葉 一裕x氏家 純一

左:国立大学法人東京農工大学 学長 千葉 一裕
右:氏家経済研究所 代表取締役 / 野村ホールディングス元会長 氏家 純一

国立大学法人東京農工大学 学長
千葉 一裕

氏家経済研究所 代表取締役 / 野村ホールディングス元会長
氏家 純一

株式会社氏家経済研究所 代表取締役社長・氏家純一氏と、東京農工大学 千葉一裕学長による対談の第3部をお届けします。

第3部:大学と人材育成

千葉
続きまして、「大学と人材育成」という観点からお話を伺いたいと思います。未来の人材に求められる資質能力というのは、どういったものでしょうか?
特に、企業側から見て大学で育ててほしい力とは何かについてお考えをお聞かせいただけますでしょうか。

「社会に貢献する」というのも、
もはや100年先の話ではなく時間軸が
非常に短くなってきているのが実情です。 氏家

氏家
少し繰り返しになってしまうかもしれませんが、お許しください。
科学というものは、私が最初に申し上げた通り、自己完結型のものから「社会に何か貢献する、社会化された科学」へとシフトしてきています。
そして、この「社会に貢献する」というのも、もはや100年先の話ではなく時間軸が非常に短くなってきているのが実情です。このように時間軸が短くなり、
「社会にどう貢献するか」が求められる中で、つい学生さんには「できるだけ早く、何か具体的な成果を」と期待してしまいがちです。
しかし、私はそれだけでは不十分だと思っています。新しい科学分野を確立し、実際に社会に役立つものを生み出すには、その土台となる基礎がしっかり
していなければならないからです。だからこそ、学生さんにはぜひ、基礎をしっかりと学んでほしいのです。
企業に入ってからでも、基礎がしっかりしていれば、そこから応用を効かせることはいくらでもできます。現場での問題に対して、しっかりとした基礎を
持っている人の知恵や知識がぶつかったとき、思いがけない解決策が見つかる。私はそう考えています。
もちろん、社会的な課題は喫緊であり、「急がなければならない」ことも理解しています。しかし、難しいながらもそこはバランスが必要です。
特に、学生や修士課程の方々に対して、「最先端分野の入門をとにかく急いでやってもらおう」と言うのは、企業の立場からすると、必ずしも「良い学生」で
はないかもしれません。
例えば私の専門である経済学で言えば、「価格理論(価格がどのように決まるか)」と「マクロ経済学(経済全体の動き)」の二つが基礎になります。
おそらく工学で言えば、数学・物理学・化学といった基礎にあたるでしょう。繰り返しになりますが、「社会に貢献する科学」であることは当然としても、
それは「すぐに結果が出るもの」ではない。むしろ、基礎がしっかりしている人のほうが、最終的には大きな貢献ができると、私は強く感じています。

千葉
このあたり、学生の立場に立ってみると、企業の面接でよく聞かれるのは、「今どんな研究をしているか」よりも、「この会社に入って何をしたいか」「将来の
夢は?」といった内容ではいでしょうか。でも彼らにとっては、社会経験がまだないわけですから、「この会社で何をしたいのか?」と聞かれても、
実感として結びつきにくいのが正直なところですよね。それよりも、「昨日、何をしましたか?」といった問いの方が、彼らにとっては答えやすい。
例えば「どんな問題にぶつかりましたか?」と聞けば、そこには自信を持って語れる何かがあるかもしれません。私自身の経験を振り返ってみても、
大学院時代というのは本当に特別な時間でした。四六時中、自分の研究のことが頭から離れず、家に帰って家族と食事をしていても、思考が止まらない。
そんな毎日を送っていました。振り返ってみると、あんなに深く悩み、考え抜いた経験は、大学院時代だけだったような気がします。
でも、あのときに身につけた「悩み方」「乗り越え方」というのは、今も私の財産であり、「全く違う分野でも、あのときのようにやれば乗り越えられる」
という自信につながっています。ですから、学生にはそういった経験をぜひ積んでほしいと思っています。
そして企業の皆さんにも、「そういう経験をした学生なのか」という目線でしっかり見ていただきたい。
そして、「もっと勉強してきなさい」と学生にエールを送るような姿勢があっていいのではないかと思います。

氏家
まったくその通りですね。私もかつて採用担当をしていましたが、人を採用するというのは、実はものすごく大きな仕事です。
金額に例えると、人を一人雇うことは、数億円の意思決定をしているのと同じなのです。そのうち何人かが将来の企業の成長を左右するわけですから、
採用は企業にとって「生命線」そのものです。だから、「あなたはこの会社で何をしたいですか?」と聞くのは、ある意味では愚問なのですよね。
そうではなく、「これまで何が面白かったか?」と聞くほうが、ずっと意味がある質問だと思います。大学院に入って指導教員に言われたテーマに取り組ん
で、毎日考え抜いて、ある日「分かった!」という瞬間が来る。「あ、これか!」「ここに進めば、何かにたどり着けるかもしれない」という感覚。
あれは、どの学問分野でも共通して得られるものですし、事業でもまったく同じなのです。「この壁を越えたら、きっと伸びる」という手ごたえ。
あの感覚を知っていることが、実は何より大切なのですね。だから、採用の現場でも、そうした経験を大切にしているかどうかが重要だと思います。
率直に言えば、「会社に入って何をしたいですか?」としか聞かない会社には行かなくてもいい。「何が面白かった?」と聞いてくれる会社のほうが、
ずっと良いと思いますよ。

国立大学法人東京農工大学 学長 千葉 一裕

国立大学法人東京農工大学 学長
千葉 一裕

その事業がどのように社会に貢献し、
どれだけリスクを減らしているのかが、
具体的な数値や評価として「見える化」
されている必要があるのです。 千葉

千葉
今は学生側の視点でお話ししましたが、社会全体を見ても、課題は非常に深刻です。ご承知のとおり、日本の18歳人口は2040年までに約30%減少します。
これは大学にとって大きな問題ですが、その先にある企業のほうが、もっと深刻になると私は思っています。
つまり、「いいビジネスモデルができた」「資金もある」といった条件が整っていても、
「これだけしか人材がいないのか…」という状況がやって来るでしょう。私が経営者の方々とお話しする中でも、この認識は共有されています。
人材の供給不足だけではありません。地球温暖化、食料・水の争奪、自然災害、野生動物による被害、伝染病の拡大など、避けて通れない問題が
次々と迫ってきています。これらは当然、企業活動にも大きく影響を与えます。だからこそ、単に事業を計画するだけでなく、
その事業がどのように社会に貢献し、どれだけリスクを減らしているのかが、具体的な数値や評価として「見える化」されている必要があるのです。
ここで、大学には人材の供給だけでなく、もう一つの大きな使命があると思っています。
それは、企業と一緒になって「こういう事業を構想すべきではないか?」「このように評価すれば、社会的意義が明確になるのでは?」という提案を
すること。そして、その中に学生たちも参加させ、苦労を共にする。そして「この学生、いいね」と思っていただけたら企業で雇っていただく。
そういう流れを、大学と企業が一緒になって作っていけるといいのではないかと私は思っています。

これに対して日本の経営者は、自省を含めて
言うべきですが、その忍耐力が不足していた、
あるいはだらしなかったのではないかと思います。
                     氏家

氏家経済研究所 代表取締役 / 野村ホールディングス元会長 氏家 純一

氏家経済研究所 代表取締役 / 野村ホールディングス元会長
氏家 純一

氏家
おっしゃっていることは理解できますが、私は少し異なる視点から現在の問題――つまり「学生数が減少し、それによって企業が問題解決のために必要な
人材を確保しづらくなっている」という状況について考えています。異なる視点とは、これまで多くの学生が入社してきて、その中で競争も激しかったため、
企業の経営者たちが新しく入ってくる人たちのアイデアを真剣に受け止めてこなかったということです。 例えば、「修士課程ならまだしも、博士課程の人材は固まっていて使いにくい」「大学で学んできたことがあっても、それは一度忘れてもらわないと困る」
というような態度が一般的でした。つまり、企業は新しいアイデアや新たに習得した知識、知恵に対して、それを受け入れる忍耐力も伸ばそうとする勇気も
欠いていたのではないかと考えています。少し例を変えて言うと、アメリカが急速に成長した理由は、若いアイデアに資金を投じ、勇気をもって「やって
みなさい」と支援したからです。これに対して日本の経営者は、自省を含めて言うべきですが、その忍耐力が不足していた、あるいはだらしなかったので
はないかと思います。これがまず一点目です。
次に、「大学まで出向いて、大学と協力すればいい」という話がありますが、実際に企業の人が大学に来ているでしょうか?
答えは「ほとんど来ていない」というのが現状です。特に教授や客員教授が3年程度で戻るようなシステムで、双方が自由に行き来できる整った制度も
広い道もできていません。学生もその中でしっかりついていける状態ではありません。だからこそ、こうした制度を早急に整備し、企業と大学の間に広い
通り道を作り、互いに人材が行き来する仕組みをつくるべきです。リボルビングドアという表現が適切かはわかりませんが、単に出入りするだけでなく、
橋をしっかり架けて進めていく方向を取る必要があります。企業の経営者に忍耐と勇気が欠けていた一方で、大学側にもややそれが足りなかったのではない
 かと思います。企業に先生たちを派遣し、数年後に戻ってくるような取り組みがあまりなかったのではないでしょうか。
海外からの優秀な人材が戻らないケースはありますが、外部からの先生が積極的に来ることも少なかった。
大学側も忍耐と勇気に欠けているのではないかと心配しています。

千葉
今のお話を伺って、私も「そうだな」と感じました。大学は教員がいて、その中で閉じた世界が形成されています。
もちろん産業界とつながりを持つ教員もいますが、大多数の学部生や修士・博士課程の学生はその閉じた世界の中で育っています。
問題は、この閉じた世界だけで人材を育てるメカニズムでは、今求められている博士課程の人材には対応できないということです。
もちろん一部は学術を極めるための人材ですが、アメリカでは、博士課程に進んだ多くの人が、博士号取得後にPh.D.として産業界で活躍しています。
これは、アカデミアでの学びと産業界との接続がしっかりしていることが背景にあります。多くの学生は、27歳頃までにアカデミアで高度な専門知識を
身につけ、その後、企業でのキャリアにスムーズに移行していきます。こうした流れが日本の博士課程とは本質的に異なる点だと思います。
行き来するドアが十分に機能していないのですね。私が思うのは、大学が企業の未来に一歩踏み込み、「その未来を一緒に創りませんか?」と提案することで
す。企業のある未来像を共有し、共通のゴールを目指すことで、教育システムや大学院生のあり方も変えていけるのではないかと考えています。
こうした踏み込んだ関わりを持とうとする大学はまだ少ないですが、私はそれを実現すべきだと思っています。
そうした取り組みに企業の方々は賛同してくださるでしょうか?

氏家
賛同するというより、切羽詰まってその方向に進まざるを得ない企業が増えていると思います。
ぼんやりしていたら「ゾンビ企業」になることが明白になってきています。個別の企業名は避けますが、昔は想像もできなかったような企業が新しい
取り組みを進めている例は多くあります。科学分野やエンジニアリング分野での変化も同様です。今まで忍耐や勇気がなかった企業も、徐々に動き始めて
いるように見えます。ですから、千葉さんがおっしゃるように「企業の先を読みたい」「先を見据えたい」という大学の意志に対しては、
企業側も「このままでは立ち行かない」と認識し、先を見据えた動きを始めています。
そうした企業と大学の間に「橋を架ける」というイメージは非常に重要だと思います。

「融合知が導く大学と社会の進化」千葉 一裕x氏家 純一

千葉
これまでの産学連携の多くは、企業が「こんな技術が欲しい」と要望を出し、それに応えられる教授を探して共同研究を行うという形でした。
20年以上そうしたやり方が続いています。しかし、その連携で大きな実績を挙げている例は限られていて、大学も企業からの要望に応じる受け身の立場に
甘んじている面があります。もちろんそれも必要ですが、大学はもっと国や世界全体の大きな流れを読み、先手を打つべきだと私は考えています。
なぜ先手を打たないのかと問いかけることは、アカデミアにこそできることだと思います。
日本は常に進んでいる国の後追いをしてきましたが、今こそ変えるチャンスだと思います。

氏家
産学連携はこれまで、企業から「こんなことはできないか」と持ちかけられ、大学がそれに応じて実験や治験を行うというパターンが中心でした。
しかし、「その先」を目指すなら、企業からはなかなか具体的な提案が出てこないかもしれません。
日本経済の現状や金融・財政政策はさておき、産業の本源的な力を考えると、先が見えず変革が必要な企業が増えています。
先を見据えて大きく業態を変えた会社もありますが、そうでない会社も多い。そうした企業に「この分野で未来が見えている」という知恵を提供できるのは
大学だけかもしれません。ただ、どの分野が見えていないのかを見極めるには、企業の人も大学に積極的に関わる必要があります。
大学だけで自己完結しているのでは難しいでしょう。同じように育ち、同じ考え方の人ばかりだと視野が狭まるのも問題です。

千葉
私もそうした問題意識から動き始めています。氏家さんがおっしゃった「二つ以上の融合」という点ですが、例えば「自然資本を活かす事業」には資金が
必要です。これまでは不動産投資のように、投資額に対してリターンを予測できましたが、自然資本の価値評価は簡単ではありません。
リスクもあり、数値化は進んでいるもののまだ十分とは言えません。そこで、インパクト投資やインパクトIRR(注:内部収益率)といった社会的価値を
リターンとして評価する金融の考え方と連携し、価値評価や標準化を進めることが重要だと考えています。大学が深く関与することで、これらを実現できる
のではないでしょうか。

氏家
インパクト投資に焦点を当てると、自然資本や気候変動の問題は定量化が非常に難しい分野です。
例えば農工大はこの分野の日本のリーダーかもしれませんが、金融家の視点では定量化の数値のばらつきが大きい。定量化の精度を高めないと、
投資対象として成立しにくいのが現状です。欧米では特にヨーロッパでインパクト投資が盛んです。スイスのザンクトガレン大学発のインパクト投資は、
UBSが支援して大きな成果を上げています。これは「社会問題を解決しながら持続的にリターンを得る」というコンセプトで、
単なる利益追求ではありません。しかし定量化の課題があるため、まだ大きく広がっていません。
これを解決すれば「ここに投資すると社会的にも経済的にも良い」と示せるようになります。農工大はこの分野でリーダーシップを取れると思います。

「完成していない」ということはチャンスです。 千葉

千葉
「まだ不十分」という評価は、大学にとっては「だからこそやるべきだ」という意味でもあります。
「完成していない」ということはチャンスです。私は幸運にも「それはこうすればよい」という段階に達しているわけではないので、まだ大学が進む余地が
大きいと感じています。進めば、より良い環境、健康の改善、食料の安定供給といった社会的な恩恵が広がります。そのために金融との連携も不可欠です。
そうした金融の専門家とも協働し、大きな企業が向かっていけるような橋渡しをしていきたいと思います。

氏家
自然資本や気候変動は、大企業も参加しやすい分野だと思います。

千葉
ありがとうございます。それでは最後に、大変恐縮ですが、東京農工大学に対する期待について、ぜひ氏家さんからお話をいただければと思います。
よろしくお願いいたします。

氏家
「科学の融合」、いわゆる「コンバージェンス2.0」が意味するのは、明らかに生命科学・生物学と工学の分野のことです。
そして、農工大は大学を統合しなくても、もともとこの分野に強みを持っています。だからこそ、そのメリットを最大限に活かして、前進できる立場にある
と思います。千葉さんのご経歴を拝見すると、農芸化学専攻で企業に入られた後、大学に戻り、さらに世界一とも称されるワシントン大学に留学され、
ペプチド医療の原料合成・製造で著名な賞を受賞されていることがわかります。「農」と「工」の融合を進め、それを社会に実装することが非常に重要です。
社会に実装するというのは決して簡単なことではないと理解していますが、この方向こそが農工大学が進むべき道だと私は考えます。より多くの人材を、
基礎をしっかり固めたうえで、より早く社会に送り出していただけることを願っています。
これは農工大の存在意義、現代的に言えばパーパスとも言えるでしょう。人類社会が直面する問題の中で、農業と医学、つまり食と医療は最大の課題です。
自然の力、生命力を化学や物理、工学と融合させ、この大きな課題の解決に向けてぜひ取り組んでいただきたいと強く思います。

千葉
ありがとうございました。経済界や金融界でご高名な氏家さんから、大学に対する大きな期待のお言葉をいただき感謝申し上げます。
私たちが今持っている資源や知見を改めて見直し、それを最大限に社会のために活かせるよう、今後も一層努力してまいります。
どうぞこれからもご指導をよろしくお願いいたします。

氏家
本日はどうもありがとうございました。